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西伊豆の温泉旅は、どこか時間の流れがゆっくりしています。
海を眺め、湯に浸かり、美味しい食事を囲みながら過ごす夜。
気を遣わずにいられる友人との温泉旅は、
最近の私たちにとって、ちょっとしたご褒美です。
──のはずだったのですが。
今回の旅では、友人のひと言から、思いがけない“事件”が始まりました。
後に私たちの間で「全皿アペタイザー事件」と呼ばれることになる、西伊豆の静かな夜のお話です。

ごあいさつ
こんにちは。「一湯一会」へようこそ。
西伊豆へ向かう旅は、いつも少し特別です。
遠い、遠いと言いながら海沿いを走り、
それでも駿河湾の景色が見えてくる頃には、
みんな少しずつ旅人の顔になっていく。
今回の舞台は、西伊豆の小さな温泉宿。
静かな夜に起きた、“全皿アペタイザー事件”のお話です。
西伊豆へ向かう旅
私たちは三島で待ち合わせをし、まずは焼肉ランチへ。
その後、修善寺から東海バスに揺られながら、土肥温泉へ向かいました。
西伊豆の海が見えてくる頃には、みんなすっかり旅気分。
宿もとても素敵で、初日から自然と会話が弾んでいました。
2日目、友人ふたりは「天窓洞」の遊覧船へ。
途中で海鮮丼までしっかり楽しんできたそうです。
ちなみに私は、観光には行かず、部屋露天を満喫していました。
海を眺めながら湯に浸かっていると、
それだけで時間がゆっくりほどけていく気がするのです。

この夜で、宿ともお別れ
この夜で、この御宿ともお別れ。
夕暮れの海を眺めながら、私たちは少しだけしんみりしていました。
それほど、この宿で過ごした時間が心地よかったのです。
夕食のフレンチも素晴らしく、宝石箱のような盛り付け。
アワビ、キャビア、伊勢海老──。
前夜よりさらに華やかなコースに、私たちの気分も自然と高まっていました。
そして、ちゃんとステーキと釜炊きご飯まで出てきた、そのあとです。
友人のひとりが、静かにこう言いました。
「……メニュー、これで終わり?
もう1周食べたい。お腹すいた。」
小食な私の半分ほどを食べ、釜炊きご飯もかなり平らげていたはずなのですが──。
私は心の中で、そっと「あっぱれ」と呟いていました。
全皿アペタイザー事件

「いやいや、これで終わりだよ。
事前に増量とかお願いしておけばよかったね」
そう言ってなだめても、友人はまだ静かに言います。
「……あと1周。」
さすがに私たちも心配になり、支配人さんを呼びました。
「別料金で構いませんので、もし本日のご飯が余っていたら、おにぎりを。
あるいは明日のパンでもいいので、何かお腹にたまるものはありませんか?」
けれど、その日は満室。
お米もパンも、翌朝分まで含めて人数ぴったりで管理しているとのことでした。
今思えば、支配人さんも相当驚かれたと思います。
とはいえ、こちらも空腹の友人をどうにかしたい。
「何か、宿にあるもので出せるものはありませんか?」とお願いすると、
支配人さんは少し困ったように、
「……みりん干しなら、ございます」
と、静かに答えました。

「二泊目は、胃袋も旅をするのだぞよ……」
ドンペリと、みりん干しの夜

「では、ドン・ペリニヨンと、みりん干しをお部屋までお願いします」
そうお願いすると、食事処を出たと同時に、部屋へ運ばれてきました。
静かな西伊豆の夜。
海の音を聞きながら、ドンペリとみりん干しという、なんとも不思議な二次会が始まります。
……そして。
友人たちは、みりん干しをあっという間に平らげていきました。
詫びさびもありません。
先ほどまで「この宿ともお別れか……」と、しんみりしていた空気はどこへやら。
人間、お腹が満たされると元気になるものです。
人生でいちばん高い、みりん干し
翌朝も、友人たちはもりもり朝食を平らげ、
私たちは12時のチェックアウトぎりぎりまで、名残惜しく宿で過ごしていました。
それほど、この西伊豆の時間が心地よかったのです。
そして最後のお会計。
ドン・ペリニヨンと、みりん干し二皿。
その金額、58,000円。
人生でいちばん高い、みりん干しでした。

おわりに
その後、私たちはまた三島方面へ向かいました。
すると、あの友人が何事もなかったようにこう言ったのです。
「熱海で海鮮丼、食べて帰ろうよ」
……君はすごい。
温泉旅を重ねてきましたが、
私はこの旅で初めて、“食欲のある人の思考”を少し理解した気がします。
温泉旅というのは、湯や景色だけではなく、
こういう小さな事件も含めて、あとから記憶に残っていくものなのかもしれません。

「胃袋もまた、旅をするのだぞよ……」

